少年老い易く学成り難し

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光陰矢の如し。

一刻千金。

諍い果てての乳切り木。

歳月人を待たず。

 

時にまつわることわざは山のようにあるが、その中には時の過ぎ行く早さを憂うものも多い。

永遠に続くかに思えた幼少期には、早く大人になりたいなどとふざけたことを口走りもしたものである。

あの時の自分をぶん殴ってやりたい。

 

過ぎた時間はもう戻らない。

 

天道総司(仮面ライダーカブトに変身する男、とてもかっこいい)に憧れを抱いて10何年、僕はまだまだ彼に近づけていない。

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理由は明白、日々をただ漫然と怠惰に流れていたからだ。

 

無駄に下半身を弄っていた8時間で何ができたか。

無駄にインターネットのえっちサイトを巡回する12時間で何ができたか。

塵も積もれば山となる。

とても悔しい。

 

大切なことはスピード。

 

瞬きする間にも駆け抜けていく時の早さをブチ抜くくらいのスピードで今を生きろ。

もたもたするな。

ボーッと生きるな。

今っていう時間は今しかない。

クロックアップ

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今日、後輩の子のバンドのオーディションを見てきた。

ステージの上でパワフルに暴れているその女の子は、まだ18、19の歳だ。

彼女のバンドは見事オーディションを勝ち抜き、8月10日に開催されるフェスの出演権を手にした。

本当におめでとう。

 

今を生きることに年齢は関係ない。

だが、歳を重ねていけばいくほど単純に命は死に近づく。

だから歳をとるごとに僕らは日々に全力を尽くすのだ。

10代の10年と20代の10年では訳が違う。

肉体は間違いなく老いていく。

10代の人間が輝こうとハジけているのに、20を過ぎていく俺たちがぼんやりしていて良いはずがない。

 

昨日の風は過ぎ去った。

今日の風に乗って行こう。

明日には明日の風が吹く。

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第23回 国場川こいのぼり祭り

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お祭りに出た。

母の日(5月12日)に、こどもの日を象徴する🎏のお祭り。

粋である。

 

沖縄大学現代音楽倶楽部にて音楽を嗜むOTYAOは、歌う場にひたすら飢えている。

お声がかかればどこにでも参上いたしますという姿勢の元、今回もこの『国場川こいのぼり祭り』に華を添えるべく三曲ほど提げてやってきた。

 

今年で23回目になるというこのお祭りは、沖縄県南部では有名な『国場川』という二級河川のそばで開催されている。

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この国場川、実はかの有名な『漫湖』を下流に持つ沖縄県を代表する河川なのだ。

しかし、密集住宅地を流れる川ということもあり、生活排水がドバドバ流れ込んでくることから、過去には「日本で最も汚れている川」ワースト4に選ばれるという悲しい過去も持つ。

(その為、amazarashiの『隅田川』を替え歌し『国場川〜魚住めない〜〽︎』と歌うことも提案したが却下された)

そんな川の水が流れ込む漫湖も、かつてはまあ臭くて汚かったのだろう。いわゆる臭マンである。

酷いことを書いたがこれは冗談だ。現在はどうやらラムサール条約加護により漫湖は水質改善を計られている為、国場川の方も以前よりはだいぶマシになってきているらしい。

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いつかメダカやタガメやイルカやジュゴンが泳ぐ国場川に浮きながら泡盛を仰ぎたいものだ。

自然環境の未来は俺たちの手にかかっている。

 

そんな国場川の輝かしい未来を夢見ながら、我々は三曲ほど熱唱してきた。

練習時間の足りないなかなんとかかんとか形に出来た三曲、やれるだけのパフォーマンスを魅せてきた。

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今っていう時間は今しかない。

今日のステージは今日しかない。

渾身から歌を捻り出す。

ヤレるだけのことはヤッた。

真夏日の母の日、緩やかに流れる川の上、優雅に舞うこいのぼりたちに、この日限りの音楽を届けてあげることが出来ただろうか?

彼らは口を大きく開けたまま、ゆらゆら空を泳ぐばかりだ。

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立夏

交通事故が起こるその瞬間に遭遇した。

一日に二度。

二度目は生まれて初めての救助活動までした。

散乱する車の破片、混乱する十字路。

頭から流血する男性に意識はあったものの、間違いなくどこかの骨があらぬ方へ行ってしまっていただろう。

救急搬送された彼は無事だろうか。

そうであることを願う。

安全運転、大事。

 

ゴールデンウィーク6日目、令和2日目、ビーチパーリィの日の出来事だった。

 

10日間の休暇は真昼の夢のように朧で、本当に10日も時が流れたのかいまいち実感がわかない。

5月の6日は立夏、暦の上では夏がやってきた。

最高の夏最高の夏と毎年繰り返されるお決まりのワードに僕は甘えていないだろうか。

僕は本当に真剣に夏と向き合えているだろうか。

二度と来ないこの夏を最高の夏とするために、本気で生きているだろうか。

 

夏はもう、始まっている。

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さすがに五月の海は寒かった。

夏は始まっていなかった。

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燃えるホタテ。

サークルでビーチパーリィした翌日には一人庭でバーベキュー。

夏を生き抜く他に余念はない。

 

ゴールデンウィークの終わりを嘆いている暇など、僕たちにはない。

 

やがて梅雨が来るだろう。

それが終われば、本格的な夏が始まる。

灼熱の季節が、心を焦がす。

五月病にやられている場合じゃない。

ギラつく太陽に負けないように、ヤツより熱い心へ鍛えていこう。

燃えていこう。

2019年、一度きりの夏がやってくる。

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運転には気をつけつつ、命を燃やせ。

 

平成は僕たちに何を残したのか

今っていう時間は、今しかない。

それが口癖の先輩は、語学留学のために渡ったオーストラリアで、英単語の一つも覚えず、Cコードを覚えて帰ってきた。

フランス人に習ったらしい。

 

僕たちが生きてきた平成が終わった。

 

平成といえば、僕たちの時代であった。

 

平成ウルトラマン三部作、平成仮面ライダードラえもんの声優総変更、おジャ魔女プリキュアエヴァンゲリオン涼宮ハルヒの憂鬱らき☆すたCLANNAD、OTYAO、真新しさと斬新さに彩られた数々のコンテンツに囲まれた時代、情熱と倦怠の中で右往左往していた僕のまさに青春の残像である。

 

あの頃、永遠に続くかに見えた平成の日々は今や遠き日の思い出。

もう戻らない一瞬の出来事であった。

 

さて、令和(平成生まれのPCでは一発変換できない)を迎え、世の中は新年が明けたかのように和やかで、しかしお祭りムードでウキウキだ。

『平成最後の~』だの『令和早々~』だのというワードが飛び交っている。

仕方ない。一つの節目だ。

 

しかし僕はこう思う。

 

平成だけじゃない。僕たちの人生だっていつかは終わるのだ。

平成を生きてきた僕たちは、「いつかは元号が変わる」ということを頭では理解していながらも、その感覚を持って日々の生活を送ることはなかった。

なんとなくいつまでも平成の気分でいた。未だに昭和の輝き、ノスタルジーに浸る人々のそれとほぼほぼ同じ感覚なんじゃないかと思う。

だが平成は終わった。30年、長いようで短いようなその時代は終わった。

 

30年の時を駆け、平成は何を残したのか。

 

 

僕たちを残したのだ。

 

 

平成に生きて、そして令和を生きていく、僕たちを残したのだ。

 

僕たちが生きていく『今』を残したのだ。

 

「平成最後だから」「令和のはじめに」

そんなことを言っている場合じゃない。

僕たちもいずれ終わる。一日一日、僕たちは床に就いて眠りに落ちるその瞬間、今日という日の終わりを迎え、薄ぼんやりとした夢の中から目覚めるその瞬間、新たな今日に生まれてくる。

一呼吸一呼吸終えるたびに『今』が過ぎていく。

次の瞬間、この命が消えて僕が僕でなくなっていくかもしれない。

平成であろうと、令和であろうと、この生命の連続は命懸けなのだ。

瞬間瞬間が、この命の節目であることを、平成が教えてくれた。

ありがとう、平成。

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平成を生きた。

令和も生きる。

『今』を生きよう。

 

今っていう時間は、今しかない。

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