平成は僕たちに何を残したのか
今っていう時間は、今しかない。
それが口癖の先輩は、語学留学のために渡ったオーストラリアで、英単語の一つも覚えず、Cコードを覚えて帰ってきた。
フランス人に習ったらしい。
僕たちが生きてきた平成が終わった。
平成といえば、僕たちの時代であった。
平成ウルトラマン三部作、平成仮面ライダー、ドラえもんの声優総変更、おジャ魔女、プリキュア、エヴァンゲリオン、涼宮ハルヒの憂鬱、らき☆すた、CLANNAD、OTYAO、真新しさと斬新さに彩られた数々のコンテンツに囲まれた時代、情熱と倦怠の中で右往左往していた僕のまさに青春の残像である。
あの頃、永遠に続くかに見えた平成の日々は今や遠き日の思い出。
もう戻らない一瞬の出来事であった。
さて、令和(平成生まれのPCでは一発変換できない)を迎え、世の中は新年が明けたかのように和やかで、しかしお祭りムードでウキウキだ。
『平成最後の~』だの『令和早々~』だのというワードが飛び交っている。
仕方ない。一つの節目だ。
しかし僕はこう思う。
平成だけじゃない。僕たちの人生だっていつかは終わるのだ。
平成を生きてきた僕たちは、「いつかは元号が変わる」ということを頭では理解していながらも、その感覚を持って日々の生活を送ることはなかった。
なんとなくいつまでも平成の気分でいた。未だに昭和の輝き、ノスタルジーに浸る人々のそれとほぼほぼ同じ感覚なんじゃないかと思う。
だが平成は終わった。30年、長いようで短いようなその時代は終わった。
30年の時を駆け、平成は何を残したのか。
僕たちを残したのだ。
平成に生きて、そして令和を生きていく、僕たちを残したのだ。
僕たちが生きていく『今』を残したのだ。
「平成最後だから」「令和のはじめに」
そんなことを言っている場合じゃない。
僕たちもいずれ終わる。一日一日、僕たちは床に就いて眠りに落ちるその瞬間、今日という日の終わりを迎え、薄ぼんやりとした夢の中から目覚めるその瞬間、新たな今日に生まれてくる。
一呼吸一呼吸終えるたびに『今』が過ぎていく。
次の瞬間、この命が消えて僕が僕でなくなっていくかもしれない。
平成であろうと、令和であろうと、この生命の連続は命懸けなのだ。
瞬間瞬間が、この命の節目であることを、平成が教えてくれた。
ありがとう、平成。
平成を生きた。
令和も生きる。
『今』を生きよう。
今っていう時間は、今しかない。